雄弁なドラクエ、寡黙なゼルダ

『ドラゴンクエストVII Reimagined』をクリアした。

一応原作のドラクエⅦもプレイしたことのある身なのだが、いかんせん昔過ぎてストーリーは断片的にしか覚えてなく、「こんな展開だったっけ?」と思うことが何度もあった。恐らくリメイクにあたってストーリーも改変されている部分があるのかもしれないが、それがどこなのかはよく分かってないし、事細かに知らないままでも良いような気がしている。この記事は、それを前提とした所感となる。

プレイして思ったのが、ドラクエⅦは戦闘と同じくらいにはよく会話をするゲームだということだった。これはシンボルエンカウントとなり戦闘を避けやすくなったことも相まっているのかもしれないし、ボイスが入ったことで会話をじっくり聞くように仕向けられた面も寄与したのかもしれない。そもそもがことあるごとに仲間と会話できるというのもドラクエⅦの特徴の一つであるし。

小説の地の文のような第三者視点からの文章表現もドラクエらしさの一つだ。これはドラクエが長年見下ろし型視点フィールドとコマンドバトルを組み合わせて成り立ってきたゲームであることが大きいのだろう。総じて、物事をなるべく言語化しようとする方針はキャラクターの頭身が大きくなっても変わっていないようだった。


故に、言語化してしまったがために「興を削がれた」と感じてしまうようなシーンもあった。

序盤のウッドパルナのストーリーが象徴的だった。マチルダさんとの戦闘後、「森の奥を訪ねてほしい」との最期の言葉を受ける。主人公たちが言われた通り森の奥を訪れると、墓の周りには花が咲き誇っている。その事実だけで何かを察するには十分、だったのだが、そこには既にパトリックがいて、イベントが始まってしまう。さらにパトリックが「なぜかこの辺にだけ花が咲いている」と言及してくる。正直言って、それが蛇足のように感じられてしまったのだ。イベントを起こすにしても、先にマチルダさんの想いに浸らせる間が欲しかった。

マチルダさんと出会った際、花が咲かない墓の周りに主人公一行が持っていた種を蒔いた。村民への恨みを募らせ悪に染まった彼女だったが、死者を弔いたいと思うだけの良心は捨てきれていなかった。それを開花として表現している粋な場面なのだが……

フォロッドでも引っかかりを覚えたシーンがあった。過去世界でゼボットに最愛の人の名前をつけられたからくりロボットが、現代ではボロボロに朽ち果てながらまだ動いていて、屍になったゼボットに献身的に尽くしていた。その事実だけでも十分に「機械仕掛けのはずのロボットにただならない奇跡が起きている」ことを察することができたのだが、そのロボットを持ち出そうとしたフォロッド王がわざわざ「心が宿っている」と言及したことで、なんだか一連のイベントが陳腐になってしまったような気がしたのだ。

ドラクエⅦのストーリーは「語ることで情緒を湧き上がらせる」ようにできている。つまり、語られる前に情緒を感じ取ってしまうと「わざわざ言語化してくれなくてよかったのに…」とわだかまりが残ってしまう

だが、このくらい言葉にしてしまったほうが親切なのかもしれないとも思う。よく「日本の映画のポスターは説明書きが多くてダサい」と話題になるが、そのほうが目を引くからそうなっているのだろう。私たち日本人がいかに「ことばから情報を得ようとするクセがあるか」がよく現れている現象だと思うのだ。

逆に言うと、構図や色彩、音、人や物の動きから情報を得る能力があまり育っていないとも言える。だからビジュアライズ的要素だけでなく、台詞や文章表現を組み合わせることでプレイヤーの理解を助けているのだろう。

で、この言語化するスタイルがゲームデザインとしてぴったりハマったのが「パラノマサイト」シリーズだと思うんすよね。


逆に、ことばの便利さに頼ろうとしない代表的企業が任天堂だと思った。

私が比較的プレイ経験があるのが「ゼルダの伝説」シリーズなので、どうしてもゼルダで例を挙げさせてもらうことになるのだが、もう導入からして寡黙ぶりが出ている。ブレワイなんかその最たるもので、ゼルダの声で目覚めてから祠を抜け出すと、広大なフィールドを絵面とカメラアングルで文字通り見せつけてくる。そこに何らかの文章を出すことはなく、もちろんリンクが何か喋ることもなく、感想はプレイヤーに委ねられる。潔くはあるが、勇気の必要な演出だと思う。ブレワイの個性はここに凝縮されていて、このOPを「良い」と思えるかどうかが、その後のゲームへの没入感に結びつくのではないだろうか。

魔物が言葉を発することはないのも特徴といえる。ブレワイ・ティアキンと「喋ることのない敵」と相対し続けたので、ドラクエⅦのボスたちと遭遇する度に「こいつらよく喋るな……」という感想を抱いてしまった。

オルゴ・デミーラから漂う小物感、やたら喋るところに集約されている気がする

この「あえて言語化しない」ゲームデザインは、やはりアクションゲームを中心に製作してきた企業としての風土が出ているのだろうなと考えさせられた。ゼルダシリーズの海外ファンの多さは、この非言語表現に比重をおいたゲームであることも一因としてあるのかもしれない。


最近プレイしたゲームだとホロウナイトもシルクソングも敵側は基本喋んないんすよね。ドラクエⅦの演出に引っかかる点があったのは、最近ハマってたゲームがことごとく「寡黙」側だった影響もあるんだろうな。