『ノンブレス・オブリージュ / ピノキオピー』 所感記事です。
曲名について。これは間違いなく「ノブレス・オブリージュ」をもじった造語だろう。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意味だそうだ。現代社会では、社会的地位が高くなったんなら高くなったなりの模範的な言動をするよう釘を刺すときに使われているらしい。総理大臣や閣僚が漢字を読み間違えたり会見中に声を荒げたりしたら非難されるようなものだろう。
ピノキオピーさんの楽曲にしては珍しく、人間が歌うのに向かない曲構成となっている。ここ数年、テーマとして人間より初音ミク歌唱のほうが合う曲はいくつか発表されてきたが、息継ぎする間もない、所謂「高速歌唱」するような曲はないのではないだろうか。「息苦しさ」というテーマに合わせるようにそういう曲にしたともとれるし、「初音ミクに歌わせるなら、初音ミクが最も適任となるよう人間離れした歌唱表現をさせるべきだ」という著名ボカロPに課せられたノブレス・オブリージュに従ったともとれる。
ただ今作もOff Vocalファイルを配布しているし、なんならご丁寧にキー違いの音源が用意されている。歌えるなら歌ってみろということだ。
ちなみに今年開催されるマジカルミライ2021のテーマソング担当は、そんな人間向きではない高速歌唱する楽曲を多数制作してきたcosMo@暴走Pさんに決定した。恐らく意識させるつもりはなかっただろうが、この記事を書きながら私が勝手に想起したことをここに書き残しておく。
この曲の主なターゲットとして、Z世代と呼ばれる現代の若者たちに向けられているだろう。SNSを筆頭としたコミュニケーションツールによる相互監視に加え、社会経験の豊富な大人たちのあるべき論が渦巻く中で、限られた場所でしか本音を吐き出せない苦しさが表現されている。
どこぞの言説では「現代の若者は自分の身の回りの共同体を維持することにしか興味がなく、政治は波風立てずに無難にやってくれればそれで良いと思っている」などと言われていたが、それだけ地に足をつけて合理的判断を下す若者が増えたということだ。民主主義社会ではマジョリティに勝るものはなく、超高齢化社会である日本では若者は少数派に属するわけで、一致団結したところで社会の仕組みを変えるような大きな変化など起こせる見込みがない。ならばせめて「君と二人」だけで幸せに生きていたいと願うのは当然の帰結だろう。
6月5日にニコニコ動画のランキングを眺めたときにこの動画がカテゴリ1位だったが、その下に『砂もない惑星』という動画があった。歌詞で「ツギハギのバカみたいな曲」と自虐されていた通りの『砂の惑星』を主としたオマージュ曲だったが、ボカロという大きな山の頂上と麓で見えている世界の違いが可視化されたようで恐ろしくなった。
山の頂上からは麓の人間たちの怨嗟の声が聞こえているのだろうか?本当の山なら聞こえてなどこないだろうが、ここはインターネットが世界を繋いだ情報化社会だ。
ピノキオピーさんは近年『工藤大発見』という別名義を作り、そちらでVOCALOIDを使わずに自分でボーカルをやる活動をするようになった。4thアルバム『零号』のインタビューの中で”10年間ずっとボカロを使い続けてきて、ぼくがやれる範囲のことは存分にやってきた”と語っており、ボカロを使わない自己表現を模索しているのだろう。そしてボカロを使うことを”ちょっと息苦しくなってきています(笑)”とも語っている。
だが当人がそう考えていたとしても周りの人たちがそう扱ってくれるとは限らない。マジカルミライ2020のテーマソングを担当し、山の頂上側のボカロPとしての立場を揺るぎないものにした以上、今後もワールドワイドな初音ミクを、VOCALOIDを、それを取り巻く文化を支えていかなければならないプレッシャーを感じているのではないだろうか。