Web小説や漫画、それに付随するコンテンツ群には「ざまぁ系」と呼ばれるジャンルがある。自己中心的な振る舞いをするキャラクターが不幸な目に遭ったりだとか、王子とか貴族みたいな位の高いキャラクターが失脚したりだとか、だいたいそういう物語が当てはまるらしい。人の不幸をテーマにしたコンテンツが流行ることに否定的な意見はあるし、私も好んで読んだりはしないが、創作の中でやるのであれば好きにすれば良いと思う。そういう負の感情を昇華する手段として創作活動をするのは、すごく健全だと思うので。
ところが、そういった「ざまぁ」という態度を現実に存在する人間に向けて放つ人もいる。例えば芸能人にスキャンダルが発覚したりだとか、政治家が選挙で落選したりだとか、スポーツ選手が見るも無惨な成績を残したりした時に起こりやすい。まあ私自身もそんなに出来た人間ではないので、そういった出来事が起きた時の狂騒をお祭り的に楽しんだりしないわけでもないが、じゃあそのお祭りに乗じて、知り合いも見ているであろうSNSに「あいつが負けて嬉しい!」みたいなことを書き込むかというと、別にそこまで入れ込んではいない。
人は誰しも、反りの合わない人や組織に対して嫌悪する感情を抱えているものだろうと思っている。しかし、それを公開アカウントでストレートに発露してしまうというのは、何か相当な憎しみを持っていないとやらないような気がするのだが、そんな知り合いでもなんでもない他人をどうしてそこまで憎んでしまうんだろう。それは憎しみが憎しみを増幅させているフェーズにないか?と思ってしまう。
私がネット上で巻き起こる憎悪の熱気に乗っかる気が起きないのは、たぶん憎しみの感情を抱くほど他人に興味を持ってないからなんだろうな、と思っている。
他人への興味の無さを自覚させられた出来事がある。職場の同僚との雑談で、「エレベーターの何階で降りる人にはこういう傾向がある」という話題になったことがあった。例えば5階は食料品会社のオフィスだから温和そうな人が降りていく、7階はITベンチャー企業だからイケイケな服装の人が降りていく、といった具合だ。
私はその話題に全然ピンとこなかった。エレベーターで職場に向かう時は本当に何も考えてなくて、どういう人がどこの階で降りているかだなんてまるで気にしていなかったのだ。
昔よりは現実社会で巻き起こっていることに対してアンテナを張るようにはなったと思っていたが、根本的に自分の世界に閉じこもるほうが好きで、関わり合いのない他人に興味を持とうとしないし、持つ余裕もないのだろうと思わされた。
周りを見渡す限り、多くの人はコミュニティに属することで安心感を得ているように思う。そのコミュニティは家族だったり、会社だったり、「推し」だったりするのだろう。私にはそういう空間に属したいという欲求がまったくないようである。私にも推しと呼べるような存在は何人もいるが、それを使って誰かとコミュニケーションをとるようなことを全然やっていない。せいぜいこのサイトで長文レビューを書く程度である。
恐らくそれは、コミュニティから得られる安心感よりも、それに伴って発言や行動の自由が狭まることを避けたい気持ちのほうが勝っているからだろうと思っている。こういう文章だって、今だったらnoteに書いたほうがもっと人に見てもらえるかもしれないのに、自分の作ったサイトに閉じこもり続けている。誰かに認めてもらいたいと願うのはもう疲れてしまい、独りよがりで好き勝手に文章を書けることに喜びを感じてしまっている。
こうやって「私は人に興味がないです」と表明してしまうこと自体が人を遠ざけてしまう。だから本当はこういうことはインターネットに書かないほうがいいのだろう。私はこれを書いて避けられるような段階をとうに越しているので、書けている。
人が一人でやれることなど限界がある。コミュニティに属した方が良い。誰かと物事を共感しあえる環境に身を置いたほうが良い。共通の敵を作り、憎しみを分かち合ったほうが良い。孤独な人間は淘汰されるのだから。……そうは思っていても、身体が言うことを聞かない。世の中にはそういうことがたくさんある。