この曲を振り返るきっかけになったのは、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の公開記念として投稿された藤本タツキと米津玄師の対談動画だった。両者ともインターネットの恩恵を多分に受けてきた世代であり、自然とニコニコ動画の話になった。そこで米津玄師があの頃の体験を「みんなで公園の砂場で遊んでるみたいな」と例えていたのを聞いて、そういえば『砂の惑星』をリリースしたときも似たようなことをコメントしていたな、と思ったのだった。
『砂の惑星』は2017年リリースで、今は8年後に当たる。『ハチ』としての最後のボカロ曲から、8年。なんだか、当時を振り返るにもちょうど良いタイミングだと思ったので、今更ながらこの作品について所感を書いてみることにする。
楽曲そのものへの考察は簡単に記しておきたい。だってもうめっちゃ詳しく掘り下げて考察してる人たくさんいるし。
ざっくり言うとハチが生まれ育ったボカロ界隈やニコニコ動画のことを『砂の惑星』と揶揄した攻撃的な曲だ。実際、2014~2015年ごろからは「ボカロ衰退論」がささやかれ、長年ボカロPとして活動していた人たちが自分で歌うようになったり職業音楽家となるためにボカロ離れをしたり等、シーンの転換期であった。ニコニコ動画もランキングページの改定等でオタク向けからの脱却を図るも、なかなか奏功せずYouTubeにシェアを奪われていた。
ボカロのあの曲、ニコニコ動画のあのミームを想起させるフレーズを散りばめながらも、「あとは誰かが勝手にどうぞ」と突き放していく。「もう少しだけ友達でいようぜ今回は」からは傲慢さすら感じられることだろう。
この曲は「マジカルミライ2017」のテーマソングである。しかも初音ミクが誕生してから10年となる節目の年のテーマソングだ。企画側も満を持してオファーをかけたに違いない。それで提供された楽曲がこのような皮肉めいたメッセージ性だったのだから、さぞかし頭を抱えたことだろう。
「惑星」から出ていったハチからの心無い楽曲によって、ニコニコ動画のコメントは荒れに荒れた。ハチの帰還を歓迎する者、突き放され憤る者、ひたすらMVの考察をする者、様々なコメントがあった。私自身は当時まだボカロ界隈への入れ込みがあったので、この曲は長らく好きになれなかった。だってテーマソングですよ?みんなパーティーのような楽しめる曲を期待していただろうし、もうちょっと大人の対応してくれても良かったんじゃないんすか?
まあ今思えば、そもそも「ミライ」を想う場であるはずのマジカルミライにおいて既に過去の存在であったハチにテーマソングの依頼をかけたこと自体が間違いだったのかもしれない。それで暗に「ボカロシーンを盛り上げるのは俺じゃねえだろ」と伝えたかったのかもしれない。だからあのような憤りを焚きつけるような楽曲になったのかもしれない。この辺りはすべて憶測の域を出ないのでかもしれない運転でお送りします。
ちなみにその翌年であるマジカルミライ2018のテーマソングは、当時新進気鋭のボカロPだったOmoiが担当している。ハチの一件で相当懲りたのかもしれない。
冒頭の対談動画の話に戻るのだが、藤本タツキが「”あなた”と”私”の物語がある楽曲において、”私”側から離れていくような描写が多いのは、米津玄師が初音ミクを置いていった原体験が由来しているのでは?」という、米津玄師考察オタクが言いそうなことを本人に問いかけていて、爆笑したと同時に鋭いな、と思った。
対談で例として挙げられていた『vivi』はハチが米津玄師を名乗ってから2作目の曲で、確かに不協和音が特徴的な屈指の切ない曲である。これが初音ミク(ボカロ)と距離を置き、孤独に制作をしなければならない苦しみを表現した曲なのだとしたら、確かにしっくりきてしまうのだ。
また以前記事にした『ドーナツホール』も、私としてはボカロとの決別を示していると考えている。こちらはviviよりもあっけらかんとした感じがあるのは、ボカロと離れてからある程度年月が経っているからなのかもしれない。
昨年公開されたドーナツホールの新MVからしても、ハチは自身が迫害されているかのような感覚があったのではないかと思わされる。できればもうしばらくボカロと共に「砂場で遊んで」いたかったが、ボカロは大きな影響力を持った「小綺麗な団体」が跋扈し始めてそうもいかなくなってしまった。それで米津玄師としての活動を始め、徐々にメジャーシーンでも注目を浴び始めたところでマジカルミライという「迫害してきた側」からのテーマソング制作依頼があったので、『砂の惑星』でちょっとした嫌がらせをしてやった、と。なかなか辻褄が合ったストーリーではないだろうか?まあ妄想の域を出ませんがね!
『ナンバーナイン』って毒気の抜けた砂の惑星みたいな歌詞してるけど、もしかしてマジカルミライ向けに制作していてボツになったものを流用した説ある?