「推し」に夢見を託す現代社会

あまりここで政治の話はしていないのですが、先日自民党の総裁選がテレビで中継されていたのでお祭りでも見るくらいの気持ちでなんとなく見ていました。

そこで候補の一人であった高市さん(後に新総裁に決まりましたが)が「今の自民党には夢がない、と支持者の方から言われた」というような話をされていて、ああ、政治家って夢を見せないといけない職業なんだなあ、大変だなあと気付かされたりしたのです。

私の感覚では、夢って人に見せてもらうものじゃなくて自分で勝手に見るものだと思うんですけど、たぶんそういうことを言うと好かれないんでしょうね。「あなたに良い夢、見せてあ・げ・る♥」ってリップサービスができるくらいの気概がないと支持してもらえないんでしょうね。夢を見せるために努力を重ねるという点では政治家ってやってることアイドルと大差ないのかもしれないなあ、と思いました。いや一緒にすんなとか言われそうですけど⋯⋯


結局現実世界って物語みたいな都合の良い筋書きどおりにはいかないわけで、「頑張れば報われる」というナラティブがいかに傲慢な思想であるかというのをインターネットが白日の下に晒してしまいました。そんな閉塞感が世界を覆ったままだと主体性なんか持てなくなっちゃうんですよね。まあ頑張らないよりは頑張ったほうが良いんでしょうけど、ほどほどに頑張って世の中が変わってくれるのを待ったほうがコスパが良いというか。

近年の推し文化とかそういう影響もあるんだろうなと思います。自分で夢を見れなくなってしまったから、推しが夢を見せてくれるのを期待しているのかもしれません。推しも人の子なんですけどね。

政治の世界でも推し文化が流入していて、SNSを上手く活用している政党が躍進してるみたいですね。まあ政治家であっても気軽にコミュニケーションがとれて身近に感じられる人を応援したくなりますよね。やっぱり政治家とアイドルって大差なくないですか?


推しの話で思い出したんですけど、米津玄師が『劇場版チェンソーマン レゼ編』の主題歌として書き下ろした『IRIS OUT』は、近年の推し文化から着想を得て歌詞を書いたらしいですね。

まず性欲とか性愛的な感情を忌避する、その営みの周辺に「推し活」というものがあるような気がしたんです。なので改めて「推し」って何なのだろうと考えました。

類まれなる鍛錬を積んで、ダンスや歌やルックスをとにかく磨いて、ある意味、神様みたいな存在として君臨する。清潔で、見目麗しく、触れるのも畏れ多いような存在であると同時に、やはりどこかで性愛的な感情を想起させることに特化している人たちだとも思うんですね。

現代では「推し」を作ることが一般的な行為になっていて、そこに救いを見出してる人がたくさんいるので、「推し」というものを否定するようなニュアンスになりたくないんですけど、これはある種の規範意識によって作られた言葉だと思う。その両義性がすごく面白い。これを踏まえたうえで、道徳的熱愛、道徳的浪漫というか、道徳と性愛的な感情の間で揺れ動かざるを得ない感覚を「IRIS OUT」という曲に投影できたらいいのではないかと考えていたところがありますね。

米津玄師「IRIS OUT / JANE DOE」インタビュー|2曲に刻んだレゼの魅惑とその足跡、宇多田ヒカルとの制作秘話を語る』より抜粋

「推し」に性愛的な感情を抱くというのは、まあないとは言い切れないですよね。魅力があるから性愛的な感情が湧き上がるわけで。でもそういうのを発露すると推しに迷惑をかけてしまうのでね。そうやってファンの人たちが道徳的に振る舞う様子に宗教的なものを感じることはありますね。


⋯⋯あれ?つまりこれは政治家も「どこか性愛的な感情を想起させる存在」ってことになるのでは?
やばい、この発想は何らかの法に触れてしまう!やっぱり政治家とアイドルは全然違います!違うんです!信じてください!!!!!

「何らかの法に触れるだろ」の発祥って名取さななんですか?